2016-05-29 8 ベートーヴェンについて調べています 生活・文化ー音楽 (12) 成長・飛躍していくベートーヴェン ベートーヴェンの家庭に悲劇が襲い、辛く暗い生活を送っていたころ、今までの選帝侯が亡くなり、若い新しい(28歳)選帝侯が就任する。意欲に燃え、経費削減や新制度の採用(古い制度の見直し)など積極的に行ったらしいが、一方で、赴任から2年後にはボン大学の創立(1786年)など、教育や芸術には力を入れている。自らも音楽に強い関心を持っていたことから、演劇と音楽が上演可能な国立劇場の設置に向け動き出した(1788年ー18歳になる年)。 光が差し始めましたよ!!! この劇場のオーケストラのビオラ奏者に採用された。後に親友となる「アントン・ライヒャ」もフルート奏者として採用されている。宮廷付オルガン奏者であるとともにオーケストラの多くの仲間とともに演奏する機会が与えられたことは幸運だったはず。ヘンデル・バッハ・モーツァルト・ハイドン・グルック・ペルゴレージなどの音楽が次々とボンにいた多くの名手たちに演奏されていく。そして、その中で、彼らとともに音を作り出していくベートーヴェンの喜びがどれほどのものだったか。想像に難くない。多くの作曲家の作品を演奏し、多くの仲間と楽器の特徴とか音楽のもろもろについて勉強し、熱く語っているベートーヴェンの姿が目に浮かぶ。 ベートーヴェンが哲学や市民社会の新しい考え方を理解していたのは、まさしくこの頃の環境にあったようです。新選帝侯は、身分制度の枠を超えた知的活動の自由を認めていたため、ボン大学では多くの先進的な人々の講義があり、ベートーヴェンは受講していたと思われます。フリーメーソン系知識人の知的結社があちこちに創られていたり、ボンではネーフェが新聞を発行し啓蒙活動を行っていたり、新しい風に敏感に感じていたことでしょう。1789年(19歳になる年)にはフランス革命が起こっていますからね。今まで黙々と働き家計を助けながら、音楽に喜びを見出していた彼は、脱皮しようとして青春という多感な時期の春の嵐の中にいたのではないでしょうか。 ところで、1789年、相変わらず父親は酒浸りの日々を過ごし、自分の稼ぎに足らず、借金までしていたらしい。15歳と13歳の弟がいるから、彼が家を守らねばならないから、決心をする。宮廷に請願書を出したらしい。これに対する宮廷の布告は次のようなものだったらしい。 選帝侯殿下におかせられましては、請願者の願いをお慈悲をもって聞き届けられ、以後、その父の仕事をすべて免じ、選帝侯領内の村に引退させるものとす。・・・また、これまで彼が受給してきた年俸のうち100ライン・ターラのみを彼に支給し、残りの100ライン・ターラは請願者たる息子に、彼が目下兄弟を扶養するために得ている俸給と、穀物3袋に加えて支給されるべく、お慈悲をもって命ぜられる。 父親は、これを見て、この布告を有効にする手続きを取らないでくれたら、自分の給与の半分は必ず渡すと懇願したらしい。ベートーヴェンはそれを聞き入れたようだ。この時以後も同じ家に住み続けているからね。ベートーヴェンの死後、遺品の中から、バッハのカンタータ「天地創造の日の朝の歌」を写譜した未完成の手稿譜が見つかっている。そこには、彼自身の筆跡で「親愛なる父によって書き写されたもの」と書かれていたそうだ。 -------わたしは、今までのベートーヴェン像を見直します。ボン時代のベートーヴェンを知ることは重要ですね。--------